ふりむくわけにはいかないぜ

生きてる日々の色々なことをただ記しています

【毒親ってなに?】への返信

 

近所の奥さん友達への返信って形で、色んなことに対する私なりの考えを記していきます。

 

今回は、自分と娘、母と自分、について友達が記したブログ↓

 

 

さて。毒親ってなにか?

 

今回は明らかな虐待は分けて考えてみる。

(虐待については、またいつか別の時に話題にしたいとは思う)

 

改めて、毒親ってなにか?

の前に、親ってなにか?

 

子どもを持ったら必然的になるじゃん!

という意味ではなく

 

「子どもが大人になる過程で、社会に送りだすのを導く役割」

 

としての親が、成すべきことはなにか?

 

私は

色んな人と関わる中で

自分として立っていられる力を育てること

だと思っている。

 

つまり

自尊心、自己肯定感

これを子どもに身につけさせること。

これこそ親の役目、と思う。

 

そう定義したとして

「親」でいられてる人って案外少ない

と私は思っている。

 

何故なら

親世代も、自尊心や自己肯定感が育ってない人が多いから。

 

これはその人自身だけの問題ではなくて

それこそ親世代もその親たちに

そのままの自分を認められてないとか

自尊心や自己肯定感が育ちにくい社会だ

ってこともある。

 

がしかし。

 

今、子を持つ身となった私達が

前世代がそうだったから

親に認めてもらえなかったから

それを理由に

いつまでもいつまでも

自分も自分を認められず、で良いのか?

と考える

 

何より

今より楽に生きたくはないか?

 

今より楽になるには

辛い(けれど慣れ親しんだ)渦の中から

一歩外へ踏みださないといけない

 

自分の辛さ

毒親だと思える親の育ち

それらを産んだ社会

 

様々なことを、自分からの視点だけでなく

まずは俯瞰してみることが必要かと思う。

 

 

ちょうどこんな記事があった。

 

そもそも毒親は、毒を盛りたかったのか。

毒に蝕まれた被害者だったのではないか。

 

子が1人で立てるように育てるには

「親」になるには、何が必要なのか。

 

この話題はまだまだ続きそう。

 

 

 

知りたい、という欲

なんで?と思う。

色んなことに。

 

特に、他人や自分の、心の動きに。

 

 

なんで、窮屈そうに生きてる人が多いのか

 

なんで、違う意見を述べると批判されたように受け止める人が多いのか

 

なんで、事実と好き嫌いを一緒くたに語るのか

 

なんで、自分を好きになれない人が多いのか

 

なんで

私は私を好きになれたのか

 

自分を好きになれない人と

好きになれた私や私の友人達との

違いはどこにあるのか

 

どうしたら

幸せな人が増えるのか

 

というか幸せとは何か

 

 

そうしたごく個人的な事柄や

心理的、哲学的なことを考えていくと

必ず社会全体の歴史や仕組みに繋がっていく

 

どうやって社会とは成り立っているのか

その昔はどうだったのか

どんな出来事を経て

現在の形になっていったのか

 

社会のどんなことが

どんな風に個に影響しているのか

 

影響を受けやすい人と

あまり受けない人の違いは何か 

 

ああ!知りたい!!学びたい!!

 

知ることは、答えをもらうことではなく

新しくまた考えるための

燃料をもらうこと

 

死ぬまでずっと

知りたい!という欲を

絶やしたくないな。


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大人になりたくない、の真意

大人になりたくない

と、息子が言う。

なんで?と聞きつつ、

それって大人が悪いよな

と強く思う。


こうなりたい!

って思えるような声掛けを
してないってことだもん。


なんで?の、次男による答えは

いろんなことの責任を負わなきゃいけないし、
大変そうだし、
楽しそうじゃないから。


ふむふむ。

でも、君達が望む自由があるぜ?
それに、母さんは楽しく生きてるよ?

と言うと

母さんはいい、父さんも……

楽しそうに生きてる人はいいんだよ
○○さん(友達のお父さん)とかさ

とのこと。



それってつまり

大人になりたくない

じゃなくて

楽しそうに生きてなくて
大変そうな人

になりたくないんだろ?と思う。


さて。

何度かツイートもしてるけど

若くて良いわね~

って声掛けが、私は嫌い。


若いことは確かにいいこともある。

しかし。

年を重ねることが悪いことだったり
全ての面で、若さに老いが負ける訳では無い。


若くて良いわね~

と声かけることで

年取ると大変よ~、
老いると怖いわよ~

と呪っていることに何故、気が付かないのか。


若者はこの先何十年も生きていくのに

若いといいわね
でもね、この先は大変よ~

と声かけることの残酷さ。


確かに
生きることは時に辛いこともあるし

この先の世界がどうなるか不安もあるけど

大人になってからの方が遥かに長い人生の

まだほんの入り口に居る子達には

早くこっち側においでよ!
大人になるって楽しいぜ

と言ってあげたい。


大丈夫、割とどんなことも何とかなる

そりゃ大変なこともあるけど、
毎日面白く生きてるぜ

そう言って、
この先の道に希望が持てるようにしてあげたい

それこそ年長者の役目ってもんじゃないの?


実際、私は楽しく生きてるしね。


そりゃ辛い時もあるけど
それは若い子にだってあるはず。


若いっていいわね

の後には

でも中年(壮年も老年も!)もいいよ!

と付け加えようぜ!!


ちなみに次男によると

母さんの友達はみんな
「いい意味で」バグってて楽しそう

だそうです。

あなたのことよ。

読書ふたたび

10年近くぶりに文庫本を買おうと思い
実際に買うことができた
そして読み終えることができたのは
長男のお陰だ。


10年近くまえ、酷い鬱になった。

仕事を休みだしたその頃から
半年しっかり休職し、復帰して
だいぶ調子が戻っても
活字を読みたいと思えなくなった。

あんなに活字中毒だったのに。


何なら

床に臥してばかりの頃より

あるいは

その前の元気なようで窮屈だった頃よりも
ずっと楽に生きられるようになった

そんな最近でも
仕事以外で字を追うのは
マンガ、雑誌、スマホくらいで充分だった。


それが、やっぱり本が読みたいと思えたのは
長男のお陰だ。


長男はネットで小説を披露している。

さすが我が息子。

私も若い頃に
ネットでは無いけれど
小説を書いたり
エッセイのようなものを書いていた。


で、長男の書く
その小説を読ませてもらううちに

やっぱり物語が読みたい
たくさん読みたい

と思えるようになったのだ。


それは

私も何かを書いて形にしたい

という思いにも繋がっている。

もちろん簡単な事ではないし
叶う確率はほんの少しでも
思うのは自由。

長男と私で

同じ年に賞を取ったらすごい話題だよね!

と言い合っている。



幼い長男が
初めて読めるようになった平仮名は

こ ど も の と も

だった。

毎月、保育園に届く絵本を楽しみに
そして寝る前にそれらの本を読んでもらう
読んでやることを
母子ともに日々の楽しみにしていた。


そのせいか、長男は本当に本好きに育った。
好きなジャンルは全く私と違うけれど。

次男はというと

ご多分に漏れず
一人目に比べたら読み聞かせも手抜きとなり
本の虫にはならなかった。

小説よりも漫画が好きな男子に育ったが

獣の奏者エリン

を読み終えたりもするので
潜在的な才能はあるようだ。


いま、しばらくぶりの文庫本に触れながら
自分ではない人の人生に触れながら

自分と息子たちの濃密だった時間に
思いを馳せている。

また本が読めるようになって良かった。


息子たちが巣立っても
私はたくさんの息子たち、娘たちの
人生を見ていくことができる。


そして
いつか私自身の人生の
記録を残すことも
きっと、出来ると思っている。

謙遜は美徳じゃない

言葉に縛られて段々取り込まれることってあると思う。

最たるものが謙遜。必要以上の。


褒められても認められても

「いやいやそんなことなくて」
「私なんかまだまだ全然です」

そう答えてる自分の言葉が呪いになって、本当に「そんなことない、まだまだの自分」になっていく。気がする。


そりゃそうだよ、頭の中で考えてることも含めたら、自分の声が1番よく聞こえてるんだから。

毎日毎日洗脳されてるようなものだもの。


さて。

自分を、自分ばかりを低く評価してしまいがちな人って多いと思う。

私の極近い周りには私みたいなお気楽人ばかりなのであまり居ないのだけど、
少し輪を広げると、自己評価低い人の方が多いよね、と感じる。

慎ましさ、控えめさが美徳ではあるかも知れないけど
それって自分の価値を認めていてこそ、なんだよね。


自分自身は自分の価値をちゃんと知っていて、評価していて、だからこその慎ましさ。

自分を控えめに表現しても失われない、確固たる自信があってこその、謙遜。

それだったら、自分が発する謙遜に呪われることは無い。


けれど、自己評価が定まらないまま、そんなこと考える暇もない時から

「でしゃばりは恥、慎ましく、控えめに」

としてきたら、正しく自分を認めることは難しいだろうなぁと思う。



自分を正しく評価(評価という言葉がキツければ認識、でも良い)出来ていないと、
対する側も何だか居心地が悪いのだな。


つまり、私はその人のことが好きで、あるいは素敵だと思って接しているのに

「そんなことないです!全然です!」

という態度を続けられると

「なんだ??オレの推しを悪く言うのか!?」

って気がしてくる。

この場合、私が好きな推しのことを、推し自身が悪く言っているという、複雑な構図になるのだな。

推しにはキラキラしてて欲しいじゃないの。

私はあなたが好きなのよ。


で。必要以上に自分を低く評価しないために。

ネガティブな表現をする必要のないところで、ネガティブに持っていくのはやめようよ、と言いたい。

例えばこれを書いてるのはGWだけど
「旅行に行った!」
も良い休日。

だけど
「連休中、特に何もせずダラダラしてた〜」
も良い休日だよね?
ふだん出来ないことだもん。

まあ普段もダラダラしてたとして、普段通りだって悪くないけど。

そこで
「あ〜休みを無駄に過ごした〜」
って言うの、まずやめてみたらどうかなぁ。

事実はただの事実でしかない。

良いことだった時だけ、めちゃくちゃに祝福の言葉を。
ネガティブに感じたら、あえて言葉にしないように努力を。

言葉にしてしまったら、それが真実として脳裏に焼き付く気がする。


お菓子食べ過ぎちゃった時も。

どうしても仕事に行けなかった時も。

家族に八つ当たりした時も。

(全部私のことだな)


お菓子食べ過ぎたな〜。

今日はどうしても行けなかったな〜。

八つ当たりしちゃったな〜。


そう思うまでで終わり。


それで

明日はお菓子、少し減らそう。

次はこうなる前に、仕事量を上手く調整しよう。

家族に謝って、八つ当たりを減らそう。


次にどうするべきかを考える方が得策。


お菓子食べ過ぎた自分はダメ。

仕事行けなかった自分はダメ。

八つ当たりした自分はダメ。


これはやめよう。

何でかって、これ考えても何の得にもならないし、何も生み出さないし、むしろ害だから。


でも、自動的にこういう考えが浮かんできちゃうの、あるよね。
染み付いてるというか。

そしたら、せめて口にしたり、文章にしたりするのはやめた方がいい。

音にしたり文字にしたりして、目や耳から認識することで刷り込まれて、真実になってしまうから。

これ、本当だから。
それでわざわざネガティブの深さを増してる人、多いと思う。


どうしても出ちゃったら、最後に

「〇〇な私はダメだ...なのに!頑張って生きててえらいーーー!!!」

って付けて帳消し!


だってさ〜超頑張ってない?毎日。

ほんと。生きてるだけで必死じゃない?実は。

まず朝が辛い。起きるのが辛いのに起きてえらい。

会社行ってえらい。

会社ない人は家族を送り出してえらい。

周りの人間と何とか調子を合わせててえらい。

て言うかマジで、生きてて偉くない?


私は毎日これを思い続けて、
そりゃ最初の頃は自分に言い聞かせるようにしてたけど

最近は本気で思ってるからね、
私って本当にえらいな〜いけてんな〜って。


そういう人になりたくない?
鬱陶しい?
自信満々で苦手?

やだ〜そしたら仕方ないわ♡

でも、私はさ、自分が好きになった人、仲良くなった人には、自分を好きでいてほしいなぁと思うよ。

推しにはキラキラしてて欲しいもんね!!

気を遣われるということ

気を遣われることが嫌いだ。

正確に言うと

気を遣ってることがバレバレの状態

が嫌いだ。


例えば職場の人とか、子ども絡みとか、大して深く付き合う訳では無い、あるいは自分が選んだ交友でない場合はまあ仕方ない。


この人と親しくなりたい、と思って向き合った時に、こちらが素を出せないほど気を遣われると
「寂しいな...」
と感じてしまう。


でも、自分の要求を口にしたり、主張をすることが苦手な人の方が多いよね、日本人。
だから、最初のうちは様子見してる。

そして、私は思いっきり開けっぴろげにしてる。

それは図々しいとは別で(いや、もしかしたら「同じだよ!」って思われてるかもだけど)、自分がどう思ってるかをきちんと伝えるってこと。

気を遣われると、
こう言ってるけど本当のところはどうなんだろう?
って慮る必要が出てくる。

良かれと思って相手を立ててるようでいて、相手にも気を遣わせてるんだよね。
なんか堂々巡りだし、本末転倒。


だから、仕事とか地域の人とか、そういうしきたりだったり序列があるような場所では必要かも知れないけど、
これから対等に友達になろうという人には、あんまり気を遣われると仲良くなれないじゃーんと思ってしまう。

早く本題に入りたいし
余分な探り合いの時間がもったいない。

お互いの「本当」で付き合いたいから。


私が「本当」で向き合うと、大抵の人は「本当」を返してくれる。
それはもちろん全部を包み隠さず教えるってことではなくて
この扉は開けないよ〜ってことも含めて、きちんと向き合ってくれるってこと。

そうなると、グッと近しくなり、色んな話も面白くなる。
例え全く違う価値観でも、「本当」を伝えあってるっていう連帯感がある。


気を遣われ過ぎるって、ようは信用されてないような気がするんだ、私は。


私が信用されてないのか、その人自身が、
「本当を出しても受け入れられる自分」
を信用してないのかは、分からないけど。

本当の自分を出しても、大丈夫って実感、持ててる?

子どもと向き合うとは

息子がとにかくうるさい。


うちの息子2人はよく喋る。
誰に似たんだ、私か。


疲れて帰ってきて、
はぁーどっこいせ、と一息ついてるともう

「マミー!ちょっと聞いてくれよ」(洋画風)

とやってくる。
断ってもやってくる、お構い無しに話し始める。


私はちっとも優しい母さんじゃないので、子どもが話しかけたら手を止めて聞くとかそんなのはない。

「母さん疲れてる」
「母さんその話興味ない」

バッサリ切り捨てる。


「独り言でいいから話させて」

強い!強いなお前...!


で、実際にベラベラ話し始める。

なかなか面白い。時もある。
よく分からん時もある。


そのまま1時間以上、一緒に話す時もあれば
「ちょっと本当にその話よく分からんわ」
と追い出す時もある。


追い出されても全くめげない。

「ちゃんあみ、そういうとこだぞ!全く勝手な女だな」
と言って出ていこうとするので
「おい、タメ口きくな!」
と制すると
「ヤレヤレ、全く勝手な女性だな。まっ悪くない」 (またも洋画風)
と言い直して出ていく。よろしかろう。


で。

子どもに向き合うって何か。
子どもを強くするのはどんな関わりか。


子どもが話しかけてきたら、いつでも手を止めて聞くことか。
子どもに何かあったらすぐ分かるように、いつも目を離さないで気にかけてることか。


そうか〜?そんなことできるか~?
それ、子ども嬉しいか〜?


それぞれの成長段階で、必要な「向き合い時間」って違うと思うのだけど、それにしたって子育てって

「見てないところでのあなたを信じてる」
ってことだと思うんだな。
その度合いを増やしていくことだと思うんだな。

だって、いずれ親の見てないところに送り出すんだから。

自分は親から直接見られてない時も、ずっと信頼され愛されてるって思わせることが、子育てだと思う。


それには、瞬きもせずジーッとずーっと見つめてちゃダメでしょ。

だいたい同じ場所をずっと見ててみ、目がおかしくなって案外、何かが起きても分かんないよ、ゲシュタルト崩壊してて。


さり気なく毎日そこにいる。
自分の時間を過ごしつつ、いつもそこに帰る。

だから、ふっと「あれ?今日何かが違う」って気付く。

毎日毎日全力で向き合うとかえって見えなくて。

普段はゆるーっとしてるほうが、ここぞと言うタイミングを逃さない気がする。

一大事に立ち向かう余力もあるしね。



「その話興味ないわ〜」
と言いながら、
「今日もなんてこと無さそうだな」
と軽く流しておるわけです。

あんまり力んで子どもと向き合うと、疲れますでしょ。

楽に適当にやっとります。